実況アナの自慰的コラム

好きなときに、好きなことを書きます。

國學院大學の優勝に思いを馳せる②

前回はこちら。

國學院大学の優勝に思いを馳せる➀ - 実況アナの自慰的コラム (hatenablog.com)

 

 

続いて驚かされたのは、待遇の違いでした。

推薦組はたまプラーザにある選手寮に入り、寝食を共にしながら学生生活を送ります。

しかしながら、一般入学組はそれを許されず、自宅からの通いを義務付けられました。

これには理由があり、我々一般入学組はいわば「仮入部員」で、まだ正式に入部を許されていない立場であったため。

恐らくは、この状態で数カ月様子を見て、入部に値するかどうかを判断するということだったのでしょう。

私は船橋の実家暮らしだったため、毎日5時に起きて2時間半かけてたまプラーザまで行き、夜遅くに帰ってくるという生活を続けることになったのでした。

 

 

ハードな練習に加えてのこの生活ですから、相当堪えました。

日々の練習にも様々な決まりごとがあり、それを事前に知らされていない私は常に戸惑っていました。

リーグ戦が始まると、神宮球場に荷物を運んだり、ロッカーを整理したり、応援歌を覚えたり、新たにやらなければいけないことがたくさん増えました。

当時はとにかく一生懸命、必死にしがみつこうと頑張っていましたが、身体は嘘をつけないものです。

結果的に、70キロあった体重は60キロほどに落ち、大学の授業もロクに受けられないくらいに疲労が溜まっていました。

そうして、心に秘めていた情熱の炎が段々と小さくなっていったのです。

この生活を続けて2か月くらい経った頃でしょうか、ある雨の日のことでした。

ブルペンで投げ終わった後、学生コーチの一人が声を掛けてきたのです。

「このまま続けてもしょうがないと思うけど、どうするの?」

心のロウソクにフッと息が吹きかけられた瞬間でした。

春季リーグが終わろうとしていた5月の終わり、私は大学野球でのキャリアをあきらめる決意を固めました。

こういう訳ですから、正確に言えば、私は國學院大學野球部に所属できなかった」人間です。

その情けなさや後ろめたさが引き金となって、仮面浪人という形で立教大学を受け直し、大学生活をリスタートさせることになるのですが・・・。

このコラムではあまり関係がないので割愛させて頂きます。

 

 

さて、ここまであたかもいい思い出が無いような書き方をしてしまいましたが、そういう訳じゃありません。

短くも厳しかった数カ月の中には、もちろん良いこともたくさんありました。

その最たるものが「人との関わり合い」です。

当時のチームを率いていたのは、現総監督であり東北高校仙台育英高校を何度も甲子園に導いた名将・竹田利秋氏で、その指導っぷりはそれはまあ厳しいものでした。

そうなると必然的に選手間の団結感は深まっていきます。

私の場合、竹田監督からは全く見向きもされず、話しかけられた記憶もありませんが、そんな一般入学生の哀れな姿を見かねてか、先輩方はよく気にかけてくれました。

当時3年生で日米野球ではエースだった村松伸さん(八戸学院光星國學院大→かずさマジック)は、「俺の部屋でゲームでもやろうや」と声をかけてくれました。

同じく3年生で、指名打者としてベストナインにも輝いた畠山翔平さん(國學院大新日鐵住金東海REX)とキャッチボールをした際には「すごい良いボール投げるなあ。相当速くなるよ!」と穏やかに励ましてくれました。これが自信になって、その後のブルペンでは140キロを投げることが出来ました。ほんの数球だけでしたが嬉しかったです。

2年生だった阿部拓也さん(日大山形)は、よく一緒に投手メニューをこなしました。苦しい時も常に笑わせようとしてくれて、とても助けられたのを覚えています。

鷲尾拓也さん(能代高→國學院大日本通運)もめちゃくちゃ優しかった。低めのストレートが捕手のミットを下から叩き上げるような軌道で、本当に驚きました。あんなボールは見たことがありませんでしたから。

同期では宇野賢士くん(華陵國學院大日立製作所)。彼は甲子園で注目されながらも高飛車な感じが全くなくて、本当にいいヤツだった記憶があります。

 

 

ああ。

なんだか書いていて切なくなってきました。

こうやって振り返ると「あきらめなければよかったなあ」って少し思ったりします。

恐らく今挙げた彼らは、私のことなど全く覚えていないと思います。

ですが、私が彼らを忘れることはありません。

いつか何らかの形で、再びお会いすることが出来れば・・・。

そんなことを心の片隅で密かに願ったりしています。

 

 

つづく